鹿児島県

知覧特攻平和会館

「知覧特攻平和会館」は、太平洋戦争末期に陸軍の特攻作戦に従事した隊員の遺品や関係資料を展示しています。 隊員の遺影や手紙、遺書、日記は、彼らの姿を知る一助となってくれます。「知覧特攻平和会館」は今につながる歴史を知り、戦争や平和、命について考える機会となる場所です。

知覧特攻平和会館に行ってきた。出撃した特攻隊員は何を思っていたのか 

「知覧特攻平和会館」は、太平洋戦争末期に陸軍の特攻作戦に従事した隊員の遺品や関係資料を展示しています。爆弾を飛行機に装着して、敵機に向かって体当たりするという人類史上例をみない特攻作戦はなぜどのように行われ、決して帰ってくることのない出撃に対して隊員は何を考え思っていたのでしょうか。


「知覧特攻平和会館」は、太平洋戦争末期に陸軍の特攻作戦に従事した隊員の遺品や関係資料を展示しています。

爆弾を飛行機に装着して、敵機に向かって体当たりするという人類史上例をみない特攻作戦はなぜどのように行われ、決して帰ってくることのない出撃に対して隊員は何を考え思っていたのか。

「知覧特攻平和会館」に展示されている隊員の遺影や手紙、遺書、日記は、彼らの姿を知る一助となってくれます。「知覧特攻平和会館」は今につながる歴史を知り、戦争や平和、命について考える機会となる場所です。

知覧特攻平和会館へのアクセス

知覧特攻平和会館へのアクセスは、公式サイトの「アクセス」で(https://www.chiran-tokkou.jp/access.html)で分かりやすく解説されています。

県外、鹿児島空港、鹿児島中央駅、周辺の駅、車など、それぞれの交通機関や場所、手段からアクセスする場合に応じた方法を地図と図解で説明しているので、そちらをご確認ください。

知覧特攻基地とは?

▲館内入り口

知覧特攻平和会館は知覧飛行場の一角に建てられています。知覧飛行場は1941(昭和16)年、大刀洗陸軍飛行学校の分校として建設されました。

しかし、その後激化する戦局を受けて最後の攻撃手段として大型艦船への体当たりを行う特攻作戦が始まり、1945年3月に知覧飛行場は最前線の特攻基地となりました。

そして、知覧飛行場からは439人の特攻隊員たちが飛び立ち帰らぬ人となりました。

知覧以外にも九州各地や山口、沖縄、台湾などの飛行場から特攻機が出撃しており、陸軍の特攻作戦全体で戦死した特攻隊員は1036人です。知覧特攻平和会館では、1036人の遺影や遺品など約4500点を展示しています。

語り部による講話

館内奥の「講話室」では、知覧で生まれ育った語り部による講話が一日数回行われています。知覧飛行場の概要や当時の歴史的背景、特攻隊員たちの手紙などについて、30~40分ほどの話を聞くことができます。こちらで予定をご確認ください。

館内VTR「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさん

▲「出撃から突撃まで」はアメリカ軍の映像で構成されています

館内には「知覧飛行場の歴史」「出撃から突撃まで」「残されたものたち」の3つのVTRが流れています。

「残されたものたち」は、「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさんを始めとする特攻隊員を見送った人たちの証言ビデオです。トメさんは知覧町にある「富屋食堂」を営んでいました。

近くに知覧飛行場ができて陸軍指定の食堂となり、トメさんは分け隔てのない優しい性格から訪れた兵隊たちから母親のように慕われたそうです。

証言ビデオの中でトメさんは特攻隊員たちのことを「とてもやさしいよか人たち。みんなかわいくて全員自分のうちの子どもにしたかった」と心の内を語っています。

戦後、トメさんは知覧飛行場跡でひとり墓標を建てて戦死した隊員たちの慰霊を行ってきました。その後特攻平和観音の建立に尽力。亡くなるまで遺族や特攻の生き残りたちと交流を続けました。戦争は残された人にとっても行き場のない思いや悲しみを残すものであることを、この証言ビデオは伝えてくれます。

特攻隊員が残したもの「遺品室」

知覧飛行場では1945年4月1日~6月11日までの約2カ月半に439人(※資料による変動あり)の特攻隊員が飛び立っていきました。陸軍の特攻作戦で亡くなった隊員は1036人、その約半数が知覧からの出撃でした。

「遺品室」は、1,036人の隊員の一人ひとりの遺影が壁面を埋め尽くしています。ショーケースには彼らの遺書や手紙、遺品などが、あの時代の臨場感をできるだけありのままに残して彼らの残像や思いを感じ取って欲しいと、そのままに置かれています。

館内には薩摩半島の最南端にある開聞岳を写した写真パネルが展示されています。開聞岳上空は飛行ルートにあり、隊員たちは「薩摩富士」と称される円錐型のシルエットが印象的な開聞岳を見て南方へ飛び立ちました。彼らが見た最後の風景のひとつです。

終戦後、特攻隊は、ある時は無謀な作戦を批判され、ある時は国のために尽くした英霊として賛美され、多くの毀誉褒貶がありさまざまな議論を呼んできました。

しかし、ここにある遺書や手紙には、一人ひとりの人生があり、家族があり、考えや思いがあります。検閲や当時の時代背景からありのままの感情を書くことは難しかったようですが、それでも抑えた文章からは一人ひとり決して一様に語ることのできない思いや考えや人生があったことが伝わってきます。だからこそ、歴史や事実を知ることをおろそかにして誰かの人生や死にざまを語ることがあってはならないと考えさせられます。

特攻隊員が乗っていた戦闘機

館内には特攻隊員が乗っていた戦闘機の実機や模型が展示されています。

一式戦闘機「隼(はやぶさ)」は総生産数5750機と、海軍のゼロ戦に続き2番目に多く生産された戦闘機です。陸軍の戦闘機としては一番多く生産され、陸軍の主力機として運用されました。

▲陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」

一式戦闘機「隼(はやぶさ)」を改良した戦闘機が四式戦闘機「疾風(はやて)」です。知覧特攻平和会館に展示された機体は、世界で唯一の良好な状態で現存しています。1945(昭和20)年フィリピンの戦いでアメリカ軍に押収されたものが里帰りした機体です。

▲「ゼロ戦展示室」は撮影可能です

海軍零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」は、海軍の戦闘機なので知覧では使われませんでしたが、特攻機として一番有名でしょう。1945年5月にエンジントラブルで甑島沖合に不時着水、海底に沈んでいたものが、35年後に引き上げられました。

出撃前夜を過ごした三角兵舎

▲特攻隊員の銅像「とこしえに」

特攻平和会館の屋外にも、特攻隊員の銅像や平和観音堂、飛行場の門柱などがあります。

特攻隊員が最後の夜を過ごした三角兵舎が復元されており、実際に中に入れます。出撃前はここで仲間と語り合い、軍歌を歌い、暗い電球の下で手紙や遺書を書いて過ごしていました。

皆が寝静まった頃、人知れずすすり泣く声が聞こえたこともあったそうです。

オンラインミュージアムと来館前の事前学習について

オンラインミュージアム

知覧特攻平和会館は今年4月に公式サイトをリニューアルして「オンラインミュージアム」を始めました。特攻隊員の手紙や学芸員による解説動画などを見られるので、コロナ禍で来館しづらい方も、自宅にいながら戦争や特攻について知ることができます。

その他にも公式サイトが非常に充実しているので、来館前にサイトをいろいろ見ておくと、訪れた時により深く知ることができそうです。

特に「中高生向け事前学習資料」のPDF資料は、戦争に至る歴史的背景やなぜ特攻作戦が行われたかなど、概要がわかりやすくまとめられています。小中学生だけでなく、大人にとっても参考になる内容です。

戦争や特攻の歴史を知ることは、今を生きる私たちにつながる事実や背景を知ることでもあります。そして、戦争は決して遠い過去の出来事ではありません。世界を見れば今なお紛争が続いている地域があります。だからこそ、歴史を知り、戦争を知り、当時の人々の証言や思いを聞き、一人ひとりが忘れず学んでいくことが大事なのだと思いました。

 

施設詳細・入館料など

住所:〒897-0302鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
TEL:0993-83-2525
ファックス:0993-83-4859

営業時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)

定休日:年中無休(ただし、台風など天候条件などによる休館あり)

入館料

個人/大人500円 小・中学生300円
団体(30名以上)/大人400円 小・中学生240円

※身体障害者手帳、療育手帳および精神障害者保健福祉手帳等を持参の方は、入館料が減免(大人300円 小人0円)されます。

※各上記手帳等1級(1種)を持参の方の付添人は、1名まで入館料が減免(大人300円 小人0円)になります。

 

取材・執筆:ちえ